フランク・モーリス・ジョネス
Frank Morris JONAS
Frank Morris JONAS
(フランク・モーリス・ジョネス)
貿易商・根付蒐集家・洋蘭収集栽培家・蔵書家
1878年4月23日、英国人のFrederick Maurice JONASと日本人の森井つるの次男として大阪川口居留地に生まれる。フランク7歳にして父は本国に戻るが、10歳の時、E.H.ハンターを後見人に立て、父の母国で教育を受けるためにイギリスに渡る。
1895年、17歳で日本へ帰国し神戸の保険代理店Morf & Co.に就職。
1899年、父と共に神戸の英国領事館にてJ.C.ホール領事より英国人としての身分証明書を受け取る。自身で事業を立ち上げるが1年後には出直しを迫られ、1900年に貿易と保険のCornes & Co.に就職し長年にわたりここで勤める。のちにF.M.JONAS & Co.を起業し、第一次世界大戦後(1918年以降)にはD.(H.)JAMESを共同経営者に迎える。
1917年に大隈重信によって創設された帝国愛蘭会の一員でもあり、日本屈指の洋蘭収集栽培家であったフランクは、1919年に塩屋に建設したジョネス邸には温室も併設。その立地条件を活かし、原産地にヒントを得た胡蝶蘭の栽培を特に得意とした。
1922年、ボルネオにテンガニッパ椰子園を設立、経営。
1926年以降にはNickel & Lyons Ltd.(ニッケル エンド ライオンス商会)の役員となり、翌年には神戸国際委員会の委員長に選出され1942年まで歴任。
1928年、50歳の誕生日に神戸のゼー・エル・タムソン株式会社(J.L.Thompson & Co.)から、日本初となる英文による根付の研究書『NETSUKÉ』を発刊。
1932年から10年間、神戸レガッタ アンド アスレチック クラブ(KR&AC)の会長も務め、1933年の第1回「みなとの祭」(現在の神戸まつり)開催にあたっては、外国人コミュニティー代表として市民祭協会の特別委員会の委員となる。
また1936年に創立された日本における英国協会神戸支部の会員として、1941年2月まで日本語教育の審査員としても活動。第二次世界大戦中は、国籍問題で大変な苦境に立たされるが、終戦の翌日には当時の神戸市長 中井一夫よりGHQとの調整役を要請され受諾。この時GHQのマッカーサー総司令官直属の文官として来日したRaymond BUSHELL(レイモンド・ブッシェル)に、フランクは自身の根付コレクションの多くを譲渡した。
1946年には、外資系企業を理由に輸出入貨物の荷役、通関業務、船舶代理店業事業の閉鎖に追い込まれていたNickel & Lyons Ltd.の戦前の事業を引き継ぎ、「ニッケル.エンド.ライオンス株式会社」として設立、代表取締役としてその生涯最後の日、1950年4月2日まで在任した。フランクの交友関係も幅広く、ビジネスを通じた財界人との交流のみならず、第15 代住友吉左衛門(住友友純)、第14代裏千家家元 千宗室(淡々斎)という名だたる名士との文化交流が記録に残っている。20世紀に入り明治維新後の産業革命を受けて興隆する日本が、日露戦争、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦と突き進む中においても、彼らは自ら先頭に立って文化を愛し、守り、育て、広く人々に伝えるべく文化交流にたゆまぬ努力を重ね、豊かな精神文化を磨き続けた。