フレデリック・モーリス・ジョネス
Frederick Maurice JONAS
Frederick Maurice JONAS
(フレデリック・モーリス・ジョネス)
煙草貿易商・日本産蝶類収集家
1851年1月1日、葉巻煙草製造業を営むDavid JONASとCatharine BARNETTEの次男としてイギリス・ロンドン生まれる。
1872年、横浜に来日。Havana Cigar & Co.で日本産葉煙草のイギリスへの輸出に携わる。翌年、水戸藩士の娘、森井つると結婚。
1875年に横浜居留地77番地に煙草検査所を設立。
1877年、拠点を大阪川口居留地16番地へ移し、煙草取引所と検査所を設立。この大阪移転までの5年間、広く関東地方、特に浅間山地付近で蝶類の採集に熱中、いくつもの日本産蝶類の新種発見に貢献。その最も得意とした採集地は浅間山付近。
1885年から1888年まで不在としながらも大阪川口の雑居地であった本田に居を構えるが、イギリスへ帰国。1889年に英国人女性Louisa Jane NAGLERと再婚。
1896年~1898年にかけ、マラリアの免疫性を得る為に日本統治下の台湾を訪れ、主に台北地方で蝶を採集し、ここでも新種の蝶を発見する。
1896年、松方正義内閣時代の外務大臣 大隈重信に「葉煙草専売法」に関する親書を送る。それまでの従価税で印紙納税の煙草税則から、すでにヨーロッパで取り入れられていた専売制を導入した専売法への移行を推奨する内容であった。これは日清戦争後の財政難に苦しむ国家の租税収入を確実なものとすると同時に、煙草の生産量、品質を管理する上でも重要であった。
1898年、E.H.ハンターの長男、範多龍太郎の経営する「大阪煙草株式会社」の技師となり、再び大阪川口に居を構える。この頃、神戸岩岡地方で栽培される日本産黄色種煙草の質の高さを高く評価し、その栽培を後押し販売促進した。しかし「煙草専売法」施行を翌年に控えた1903年、新たな活躍の地を求めてイギリス統治下にあるビルマに移る。
1906年、大阪高麗橋のDomeiTabacco & Co.の取締役に任命されたことを機に再び来日。
1910年、ビルマ ラングーンにビルマ初の煙草製造会社を設立、経営。ビルマ農業省の煙草栽培と加工(巻煙草)の技術開発に協力。離日後も毎年のように日本を訪れていたが、1924年4月24日、神戸港入港2日前の瀬戸内海洋上のカナダ・エンペラス号の船内で亡くなる。非常に幅広いフレデリックの交友関係の中にはイギリスの第2代L.W.ロスチャイルド男爵、大隈重信という有力な政治家の名も挙がる。大阪ホテルの創業者草野丈吉やその娘 錦との交流も、それぞれの末裔の家に残る写真から推測される。明治維新直後の文明開化の風があらゆる方面で吹き渡り、様々な制度が激変する日本において、そのビジネスを超えた交友関係には時に、互いの文化を直伝吸収することで異国への理解を深め、活動を支えあっていたことが垣間見られる。フレデリックは仏教美術品も数多く蒐集していた。